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執筆者の写真funtrap

特産物から脱却・クラフトビール造りで世界と勝負する男。コエドブルワリー朝霧重治の挑戦【前編】

「ビール作りは農業を大事にした結果」。今や世界中のクラフトビールに関する数々の賞を受賞した「COEDO BREWARY(コエドブルワリー)」の社長、朝霧重治(40歳)氏の言葉には重みがある。1994年の規制緩和により、国内に地ビール市場が登場した頃からビール造りを開始した同社。未熟な技術で産み出した「特産物」としてのビールから脱却し、試行錯誤や苦難を乗り越え、世界から賞賛を受ける「美味しいビール」の製造者となった。

埼玉県川越市は、江戸時代から「小江戸(こえど)」として栄え、現在も昔ながらの古い町並みや観光地として人気のエリア。商業、工業だけでなく、農業も盛んなことで知られている。そんな川越を舞台に、クラフトビール「COEDO」は生まれた。

>>>まず背景にある協同商事について教えてください。

元々協同商事という会社は、1970年代に始めた有機農産物の産直商社です。義理の父であり、創業者である朝霧幸嘉は、元々岡山の農家出身。農学部で学んだものの、自分が農業に身を投じるというより、システムとしての農業に関心があった。そのため大学卒業後に「生協(日本生活協同組合連合会)」に勤め、初代青果物バイヤーとして活躍した人でした。

そして仕事を通じて、日本の農業への閉塞感や、農薬を使った栽培方法に疑問を持つ若い農家の人たちと交流ができ、中でも川越の農家たちとの出会いが、弊社設立のきっかけになったと聞いています。有機栽培、契約栽培というプロセスを通じて、70年代から「安心、安全な青果物を世に届ける」ということに真剣に取り組んでいます。

川越は、もともと関東ローム層のために作物が育ちにくい土地でしたが、江戸時代に食物増産の号令により、畑作作りが始まった背景があります。そのため、当時から地元の農家は、広葉樹を植えて落葉堆肥をしたり、輪作によって土地の上手な使い方を知っていた。そうした循環式農業という考え方があって、川越では始めて関東で「さつまいも」が栽培された場所として知られています。

>>>どのようなきっかけで、ビール造りが始まったのでしょうか?

こうした流れの中で、我々の根底には「ビールは農産物である」という観点があります。ワインと同じような考え方ですね。輪作という色々なものを栽培する中で、「柔らかい土作り」をする為に、麦作りをすることになったのです。麦は緑肥というんですが、土地の力回復させるもの、という意味です。我々の考え方としては、土地に栄養を闇雲に与えるわけでなく、土本来の力を自然にどう作っていくか、という考え方を推進してきました。その土作りのために、70年代から「麦」を植えてきたのです。

ただ麦は単位面積に対しての刈り取り数量も少なく、さらに米作りをしている農家ではないので、刈り取る機械もないという状況でした。高価な刈り取り機を導入してまでの儲けは、麦栽培から得ることは難しく、結局トラクターで肥料として吹き込んで終わらせていたのです。これはもったいない。

工場の管理には細心の注意をはかる。見学時もガラス越しなのは真摯な姿の現れだ。

協同商事のもう一つの企業理念は、原料の供給だけではなく、農家から買い取った野菜に「付加価値を付けて」製品にし、売ることで農業をもっと主体的にできる方法を探ることです。麦としての価値は低くても、それを「ビール」という加工品にすることで、状況が変わるのではないか、という話になったわけです。

>>>実際のビール作りはどんな形で始まったのでしょうか?

麦と言えば、小麦などの用途もありましたが、川越の麦は大麦だった。そのため「ビール」しか選択の余地がない状態でした。しかし80年代後半だった当時は、ビール作りに関して規制があったので、まずは輸入ライセンスを取り、海外のビールを輸入し、国内で流通させることでビール流通についての勉強をしました。同時に規制緩和のタイミングを待った訳です。

我々のスタンスとしては、「ビール造りってすごい」という観点というよりも、農業という考えの延長にあるビール造りを追求した。ただ、結局麦が使えなかったんです。麦って麦芽、つまりモルトにしなくてはいけないんです。技術的にはできるんですが、これに取り組んでしまうと、ビジネスにならない。欧米のモルトって、それに対して本当に素晴らしくて、さらに手頃なんですね。なので、実際川越の麦を使ってビール造りをすることは、あきらめた状態でした。

その代わりに、「さつまいも」を使ってビール造りに取り組んでみようということになった。ちょうど規制緩和後の1996年に、結局ビールではなく、発泡酒の製造ライセンスを得て、「サツマイモの発泡酒」の醸造に成功したわけです。ちなみにさつまいもなどの根菜類は、形が悪いといった理由で規格外として、約四割が破棄されていました。当時の地ビールというのは、マーケティングモデルが「観光客に、特産品としてのビールを造って売り出す」というものだったんですね。なので、結局川越が観光地だったこともあって、どんどんその流れに引きずられてしまった。ホップの代わりに狭山茶を使ったり、さつまいもを使ったりと、完全な特産品造りに移行していってしまったのです。

生産が始まった頃は、地ビールブームまっただ中。我々のビールも売れました。最初の生産拠点から、20倍の投資規模で、現在のこの工場に移り増産しました。しかし、結局日本の地ビールは「一時のブーム」として過ぎてしまった。

この初期の「地ビール」ブームが日本で定着しなかった理由の一つは、ビールについて、生産者も消費者も経験不足だったからだと思います。いくらレシピ本通りに造っても、飲んだことのない味に対して「本当にこれでいいのかな」という疑問ばかり。例えば米国では、家庭でのビール作りが認められていたので、ビール好きが試行錯誤して「美味しい」ビールを作る経験を沢山積んだ上で、クラフトビールが生まれている。だが日本にはその経験がなかったのです。

>>>ではどのような形で、状況を打開されたのでしょうか?

やっぱり、美味しいビールを造るなら、本当にビール造りを知っている人に社員になってもらわないとダメだよね、という話しになったわけです。それで当時プラントなどをドイツから輸入していたので、その伝手で紹介してもらったビール造りの職人「ブラウマイスター」である、クリスチャン・ミッターバウアーさんを1997年にドイツから呼びました。そして、ビール職人になりたいと弊社に就職してきた、若い理系出身者たちに、5年に渡ってビール造りのイロハを教え込んでもらいました。彼等第一世代が、ビールに関しての職人魂と技術を伝授してもらったわけです。

なので、我々のコエドビールは、初期の頃から味については悪くはなかったのです。ただそれが日本人に合うか合わないかは分かりませんが(笑)

前編では、「地ビール」ブームの流れと、COEDOが生まれるまでの苦労話を中心に、朝霧社長の話しをまとめた。次回は朝霧社長がいよいよCOEDOビールに関わるところから、話しが始まる。次編も乞うご期待!

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<Punta.jp用執筆/2014年5月29日公開> http://punta.jp/archives/25684


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